日本語は「論理的」じゃない?

論理学の専門家ではない私ですが、英語教育について考えていると、いつも「論理的」というところでもやもやした気持ちになります。今日はちょっと雑感を。

日本語は論理的ではない、という言葉を耳にしたことがあると思います。特にヨーロッパ言語と比較されて言われているような気がします。もちろん、そんなことはないのですが、何故そのように語られるのか?もし日本語が論理的ではないのであれば、日本語話者は論理的には話をしないことになりますよね。だけど多くの国々に日本の会社は工場やオフィスを作り、現地の人々と意思疎通を図って仕事をしています。海外赴任した日本人だけが論理的な人々なのでしょうか。

単純に考えれば、意思疎通ができている理由は、赴任先の国の人々が納得できるような「話し方」があって、それに「合わせている」のではないか、と推測できます。自分の経験からも、そうでした。つまり、「論理的」という言葉は、実はそれぞれの国の人々の「話し方」、言ってみれば「マナー」のようなものなのではないか、と思うのです。(行儀作法、ではなく、方法、という意味です。)ですから、海外では受け入れがたい「マナー」を他国で無意識に使ってしまい、現地の人にとっては「日本人は何を言っているかわからない」ということになる。それでも、何だか日本人は世界でも活躍してる。エキゾチックジャパン♪

となると、声の大きな人たちの論理がみんなの論理になるから、日本でしか通用しない論理は論理ではないことになりますね。おそらく、巷で使われている「論理的」のもとは、ヨーロッパ言語、特に世界のビジネス界で広く使われている英語の論理と考えられます。しかも、コミュニケーションエラーが起きないように、一定のフォーマットを構築し、共有てしまえば効率的です。ですから、日本語が論理的ではないわけではなく、英語の論理と違うだけで、あたかも日本語がダメなような言い方になっていると思うのです。

ちょっと脱線します。日本人が海外に旅行にいったりすると、自分の身は自分で守るという点で、たびたび甘いと言われます。バッグをテーブルに置き去りにする、財布がズボンのポケットから顔を出している、危険な場所に不用意に立ち寄る。。。確かに甘いかもしれませんが、でも考えても見てください。どちらが間違っているのでしょうか。みんなが言っているから正しいのでしょうか。何か釈然としません。もちろん、現実にはわざわざ身を危険にさらすような行動はとりませんし、「甘い」といわれる意図は警鐘を鳴らしていることも分かりますけどね。

ともかく、何が良い・悪いの話ではありません。違うだけです。ですから私は、特に英語の論理をロジックと呼んで区別しています。彼らのマナーを身につけて、お互いに意思疎通を図れればよいだけです。ですから、英語を習得するときに、ロジックは大切な要素の一つとなるわけです。英語は論理的で、日本語はそうではない、というもやもやする議論には終止符を打ちましょう。

ボーっと生きてんじゃねーよ!

「ボーっと生きてんじゃねーよ!」

なかなか大人になってから叱られたことがないですよね。このセリフ、流行語大賞の候補にも挙げられました。NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組内で、ある決まり文句で使われています。今日はこの番組を取り上げます。

まず、知らない人もいるでしょう。詳細はNHKのHP等で調べてみてください。ここでは、どんな番組なのか、その構成を説明します。

まず日ごろ何気ない言動に焦点を当てます。例えば「なんで年末のことを「年の瀬」っていうのか」。この問いの答えを、司会進行の「チコちゃん」が、解答者の芸能人に聞きます。「え、そんなこと考えたこともない!」と答えると、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られるのです。

そこで、チコちゃん、番組の冒頭なのに、すかさず答えを言ってしまうのです。なぜ「年の瀬」というのかというと、それは「借金清算の攻防の時だから~っ」・・・再び「?」

これからが大切です。つまり、問いと答えのギャップを埋めるための説明ビデオが流れるのですが、必ず「その道」の専門家が現れるのです。例えば歴史的な記録だったり、データだったり、文献だったり、さまざまなエビデンスと例を基に、専門家が説明を繰り広げるのです。

そして、最後に「なるほど、だから借金清算の攻防の時と結び付くのね」となるわけです。

この番組構成、パラグラフの構成と全く同じじゃないですか? Introduction → Body → Conclusion です。そう、導入部で結論を述べ、本論ではfactをもとに識者の見解と例示、そして結論は導入の繰り返し。なるほど、と思う思考パターンをうまく活用しています。

さて私のポイントは、というと、何も番組礼賛をしたいわけではありません。この本論展開部分にクリティカルになって欲しい、ということなのです。識者の見解はあくまで「見解」であって、真実かどうかわかりません。もし疑問があれば、それはなぜか、どこが論理的ではないか、等々、能動的に受け止めて欲しいのです。じゃないと、メディアに私たちの思考を乗っ取られコントロールされてしまいます!

とはいえ、単なるバラエティー番組です。そう固いこと言うなって声も聞こえてきます。ボーっと生きたい時もありますよね?あ、チコちゃんに叱られる?

アデレード

どこがCT?から間が空いてしまいましたので、仕切りなおし(^_^;)

先日、南オーストラリア州アデレード市を訪れ、高校を何校か見て回りました。気になったこと。訪問した高校はいずれも州政府からの補助金を使い、校舎の改修・増築を実施。いわゆる講義中心の「教室」を「対話がしやすい空間」に作り替えていたこと。壁を取り払い、廊下側は全て窓ガラスにしたり、壁が全面ホワイトボードになっていたり、もちろんイス・机は可動、学びの道具はPCやタブレット・・・。何が気になったか、というと、今、まさに対話中心の授業を実施する空間をどんどん作っていること。すごく進んでいるわけでもなく、遅れているわけでもない。とにかく、変化進行中であったことが目で見て分かったこと。

外側だけでなく、カリキュラムも変更していました。ダイアログの重視、コラボレーションは大前提の授業展開。今まで見たことも聞いたこともない事案に、どのようにして対処していくか。いかにして創造性豊かな発想を育てることができるのか。多様性をどのようにして創出し、受け入れる練習をしていくのか。こうしたことを文字化して、全員で共有しながら授業計画を作成し、実施していく。つまり、フォーマットとプロセスを提示して、授業案を作成する。

そこで、現地の先生方や教育庁の方に質問してみました。「先生方はついてきていますか?」と。Yes & Noでした。教室やカリキュラムがどんどん変わっているので、半ばそうせざるを得ない。でも相変わらず旧来の講義型の授業もありました。ある先生は、先生方の3割はついてきていないとも言っていました。ハードが劇的に変化するなか、ソフト(先生方)はどう対応しているか。「週に1日は2時頃授業を放課して、先生方の研修に充てています。」それでもまだまだ。

さて、この事象をどうお考えになりますか? 例えば現場の教員の目線で、例えば管理的な目線で、例えば俯瞰した見方をしたら・・・。

視点を変えれば見方が変わる、かもです。これこそクリティカルに見るための一つのやり方。みなさんのご意見はいかがでしょうか。(もちろん、私の記述は私の私見ですから、これを基に議論するのはそもそも無理がある、もっと事実を提示しないと話にならない、というご意見もありますが。)

私の意見は、「すごいなぁ」「うらやましい」と同時に、「変える」ことと「変わる」こと、両方とも大切だけど、「変わる」ことの方が難しいんだろうなぁ、と。国は変われどいずこも一緒か。

どこがCT?#6

ちょっと間が空きました。これからはもう少し頻繁につぶやこうと思います。

さて、前回はCompare & Contrast (比較・対照)のお話しでした。特に最後の部分でCompare(比較)を取り上げました。つまり、共通項を抽出することに意識を払って、一般化してみる、そしてその一般化が妥当性が高いかどうか、がポイントでした。今回はもう一つのContrast(対照)について。こちらは相違点にクローズアップ。

よくある例として、蝶々と蛾のCompare & Contrast。似て非なる事柄を分析する時は、特にContrastさせることが有効ですよね。相違点がその特徴を浮き彫りにします。また、違う点があることの利点や欠点に結び付けて論ずることができます。もちろん、ロジカルに論ずることで、その利点や欠点として指摘したポイントの妥当性を高めることができます。

ただし、ロジカルであることをはき違えると、偏見へとミスリードさせることもありますね。比較文化論の入口です。ある特定の人種が他よりも優れている、といったような至上主義的な発想。ある表現がある・ないを根拠に言語間格差を論ずる仮説、などなど。

そして、ミスリードに気づけるかどうかが、クリティカルシンキングです。

ロジカルに考えて、イロジカルに気づく目をもつこと。対照させた相違点から導き出された結論の論拠の妥当性に目を向けられるかどうか。まさしく、「鵜呑み」にしない態度を涵養できるかどうか。

単に比べることが、色々な形に発展します。クリティカルに考えるための種が散らばっています。

どこがCT?#5

さてクラスの問題解決に向けて、次なるステップ。

事実をもとに、様々な意見がでてきました。で、どうするか。まずは比べます。比べる時のポイントは2つ。同じ点があるか、違いは何か。な~んだ、当たり前じゃないか、って声が聞こえてきそうです。はい、誰でもやっています。

おそらく、私も含めて、みなさん自然にこうしたことを行っています。あまりに当たり前で拍子抜けしますよね。でも、「なんとなく」と「意識して」では大きく違うと思うんです。つまり、「どうやって共通項・相違点を見出そうか?」と、戦略的に分析する態度がないと、行き当たりバッタリになってしまいます。いつも出たとこ勝負では、ややもすると教師の同調圧力に生徒が屈するか、声の大きな生徒の意見に支配されてしまいがちです。ま、時にはそれでもいいかもしれませんが。

具体的には、ベン図などの表や、対比させるためのフォーマット、グラフィックオーガナイザーなどと呼ばれますが、こんな型を積極的に活用するのが一般的です。そう、情報の可視化ですよね。その上で、共通項が取り出せたらそれを一般化します。また、異なる点が指摘されたら、その点について再度議論が必要になるでしょう。

さて先人たちも、人間の情報処理の行動パターンを分析してみると、どうもこんなことをしてるらしい、と言っているようです。つまり、情報処理の一つの手法として、我々は2つ(以上)の情報の共通項を見出そうとし、異なる点を指摘しようとします。そして、この手法を、Compare & Contrast(比較・対照)と称し、特に時間をかけてトレーニングするのです。複数の情報から自分なりの意見を導くときに使う常套手段なのです。

ということは、クラスで問題が起こったら、事実を収集し、意見を募り、それらの共通項を見出し、それをルール化したり共通理解として確認したりする。もし異なるポイントが指摘されれば、その点について再度検討し、解決を図る。できるだけ、感情論に陥らないように、事実を根拠に議論を進める。子供たちに「君たちで考えて決めなさい!」もいいですが、「こんなふうに決めたらどう?」とガイドしながら、トレーニングすることも必要ですよね。

このように意見を集約していく過程で、納得できない生徒がでてきたら、クリティカルなセンサーが働いているかどうかチェックする大きなチャンス!つまり、共通項が多く見出されてルール化しようとしても、異議を唱えた場合、「なぜ」意義を唱えるのかを「事実」でフォローできるかどうか。そして、その異議が説得力をもったものかどうか。単純に「嫌だから」ではなく、別の事実を根拠として挙げられれば、それはステップアップのいいチャンスです。

さて、少しずつ話を進めてきましたが、次は相違点や異議に対する対応について深めてみます。

どこがCT?#4

ここまで、クリティカルに考えるための、初歩の初歩を紹介してきました。まずは情報の授受を正確に行うことだと述べました。

さて、では次にはどうするのか。情報の授受だけでは、単なる情報共有だけに終わってしまいます。もちろん、シェアすることは大切です。でも、何のためにシェアするのか。ここまでは目的を明示していません。そこで、何かの目的や課題を解決するために、手に入れた情報をどのように使うかのトレーニングを行っていきます。

例えば、クラスで問題が生じた場合、その解決をみんなで図るとします。こんなことは、日本の教室内でも起こりますね。こんな時とうするか。まずは問題を整理します。つまり、どんなことが起こったのか、事実を確認します。ここで情報共有トレーニングの成果が期待できますね。場面別に、時系列に沿って事実を並べていくわけです。この時に、できるだけ感情的な部分を出さないようにします。

情報共有をする過程で、事実と異なることが挙げられていないかをチェックします。つまり、本当に時系列に沿っているか、漏れはないか、重複していないか。そう、ここがクリティカルな視点のおおもとです。単に懐疑的になるのではなく、自分の持っているデータと照らし合わせる、食い違っていないか確認する、ということです。その結果、何が問題かを明確にし、各個人がどうしたいのか「意見」を述べるわけです。

さて、ここで事実と意見が異なることが明らかになります。つまり、事実とは、ここでは過去に起こった現象であり、その記録(記憶)をたどれば何が起こったかが共通認識できます。つまり、確かにその事実があったということがわかる「手立てがある」わけです。それがノートの記録やクラスメートの記憶であるかもしれません。トラックバックできる証拠があること、これが事実(Fact)。対して、意見とは、こうした事実を基に導き出した、個人の見解(Opinion/Idea)です。

個人の見解は事実に基づいて形成されます。別の言い方をすれば、「私は・・・と思う。なぜなら、こんな事実があるからだ。」ということになるわけですね。つまり、理由となる事実の部分は共通認識されているので、反論できない。(もちろん、不適切な引用は話が別ですが。)だから、「私は・・・と思う。なぜなら、・・・と思うからだ。」となると、理由自体が意見になってしまいます。これでは困るわけです。だって意見を意見でバックアップすると、今度はバックアップした意見の根拠(事実)が必要になるからです。ちょっとややこしいですが。

ということは、まず意見を適切な事実でバックアップしていなければ、「おかしいぞ」と感じ、また、意見を意見でバックアップすると、「おかしいぞ」と感じるようにトレーニングするわけですね。そう、これもクリティカルな視点なのです。先ほどの事実確認よりも難易度が上がりました。

では、どうやってこのクラスの問題を解決していくのか、は次回に。

どこがCT?#3

しばらく投稿をさぼっていました。ごめんなさい!!

さて、CTについて少しずつ説明してきました。ここまでを簡単にまとめれば、能動的・受動的に論理的な矛盾に対するセンサーを持つことだ、と言いました。とはいえ、言うは易しですよね。そこで、CTセンサーを身に着けるために、次なる作戦を展開するのです。

まず、能動的に、間違いなく情報を伝えるトレーニングをします。一番容易なやり方の一つは順を追って述べることです。例えば目撃した事故を相手に伝えるならば、事故が起こる前から起こった後までを時系列で述べればよい。また例えば、カップラーメンの作り方なら、間違ったものができないように手順を示せばよい。

もちろん、聞く側も、意味が通るかどうかチェックしながら聞きます。わからなかったり、情報が足らなかったらすぐ質問です。

次によくトレーニングするのは、状況の説明です。色、形、大きさなどの物理的な情報や、いわゆる5W1Hといった基本情報を言葉にします。「どんな人が、何をしたのか?」という説明が典型ですね。

こうしたトレーニングを、describingと言ったりします。そして、describingする手法として、listing upしたりsequencingを意識したりするのです。

このような情報伝達トレーニングを通して、できるだけ客観的に事実を言葉にする練習をします。思い込みや感想を求めません。あくまでも、見たもの・ことや書いてあることをキャッチできたかどうかのトレーニングです。

また、ここでは語彙力が大きく問われます。つまり、言葉を知らなければ表現できないのです。また、知らない言葉は(意味を)聞き取ることすらできません。ですから、情報伝達をするために、たくさんの言葉や表現を知らなければなりません。そのために、多くの人と言葉を交わし、たくさんの本を読むことが奨励されるわけです。

このようにして、情報を間違いなく発信し、また誤解なく受け取ることがCTの第一歩となります。クリティカルに思考するには、一朝一夕にはいかないのです。

どこがCT?#2

クリティカルっていったい何か。そのおおもとを、小学校のShow & Tellに見出したと述べました。さて、もう少し掘り下げてみましょう。

Show & Tellを通してトレーニングしている大切なポイントとして、次の2点を挙げたいと思います。

①自分の発言に対して「なるほど」と思ってもらえるか。つまり、能動的に相手を説得したり、納得させたりできるかどうか。

②人の話を聞いて「なるほど」と思えるかどうか。こちらは受動的な姿勢ですが、積極的に相手の言葉に納得できるかどうか、常にセンサーを働かせているかどうか。

では、「なるほど」という感覚はどうしたら芽生えるのでしょうか。色々と考えられますが、ここでは次のことを挙げたいと思います。

まず、話が首尾一貫していること。つまり、トピックについて関係のあることのみ、述べていること。自分が言いたいことを補うために、関連性の高い経験談や誰かから聞いた話を使ったりして、言いたいことをより強固で説得力のあるものにし、「なるほど」と思わせるのです。

さらに、トピックに関係のあることを述べる時、しっかりと理屈が通るような事柄を引き合いにだすこと。つまり、関係はあるのだけれど、自分の言いたいことの支援としては不十分な話はダメ、ということを学びます。例えば、「大切なもの」がトピックで、それは「腕時計」だとします。ポイントはなぜこの「腕時計」が大切なのかを述べる訳ですから、仮にその理由が「亡くなった祖父からもらったから」だとすると、時計の性能について詳しく述べることは関連性の薄い話になります。(もちろん、そのことが祖父と関係することだったらOKですが。)こうして、聞き手に「?」と思わせないようにするのです。

このように、首尾一貫して理屈が通る話かどうかが、意見を述べる時に大切な要素だと、具体的に、身を以て、しかも何度もトレーニングされます。裏を返せば、聞き手もこの首尾一貫性と、トピックに関連したサポートの論理的整合性に敏感になるよう「仕組まれている」わけです。ということは、そのようになっていない部分に気付いたり、なぜ納得できないかを教えてあげたりする力が、とりもなおさず「クリティカル」な見方のおおもとになっているのです。

こうして説明するのは容易なのですが、実際に話てみたり、書いてみると案外難しいものです。次回はさらに「クリティカル」なポイントに迫ってみます。

どこがCT?

Show & Tell について、イメージしていただけましたか?

小学生がよく学級会などで前に立ち、1分間スピーチのようなことをしますよね。あの感じです。

で、お題に沿ったことを言うわけですね。日本でも同じようなことをしています。別に特段変わったことはありません。しかし、日本とはちょっと違うところがある。どこがか、というと、どの先生でも、一様に「大切な」ポイントを指摘するところ。つまり、どこの学校でも、どの先生でもほぼ同じように同じことを指摘する。ここが大きな違い。つまり、先生の「感覚」や「好き嫌い」を反映した、先生の「意見」を言うのではありません。(あ、もちろん、人間ですから、何らかの偏りはありますけどね。)まずは必ず5W1Hの確認。話す内容も、お題に関連して一つのことに収束しているかどうか。もちろん時間を守ることも。そして、何より大切なのは、「なぜ?」に対する答えとなっているかどうか。

「自分にとって大切な物についてお話ししよう!」なら、「なぜそれが大切なのか?」を説明するわけですね。そのために、いろいろな情報を提示する。聞いてくれているみんなが、「なるほどね」って。もしそう感じなければ、質問する。そしたら、話す方は、もっと情報を追加する。

ここです、「クリティカル」のおおもと。「なるほど」と思ってもらえるかどうか。「なるほど」と思えるかどうか。思えなかったなら、それはなぜか。話し手も聞き手も、常にトレーニングしています。

さて、CT教育のスタートはこんな所にあったのです。え?それでもどこが批判的思考なのかよくわからない?

では、次回はもう少し詳しく考察してみます。

現地校での教育を見て感じたこと。

典型的な取り組みは、Show & Tellです。頭では知っていました、だいたいどんなものなか。

ご存じない方に、その概要。簡単なお題を与えられ、基本的には一人で、みんなの前でそのお題について発表します。たとえば「あなたの大切なものを持ってきて、なぜそれが大切なのかみんなに教えてあげて」などです。

私が指摘したいのは、先生の助言でした。「関係ないことは言わないこと。」「いつのことかな?」「誰の話?」「大切な理由を教えて。」・・・

これって、public speechの練習です。しかも、いわゆるcoherencyの徹底や5W1Hの情報を明確にすることに重きを置いている。特にcoherencyについては、とても厳しく、関係ないことを話し始めると、「それは関係あるのかな?関係なければ言わないこと。」と突っ込まれます。

あ、この話は小学校1年生の授業です。こんな小さなころから、プレゼンの型をトレーニングされ、自己主張を理路整然とできるような素地を身に着けているんです。ここにこそ、CTの芽があった、と感じたのです。

でも、どこがCritical? 少しずつCTに迫っていきましょう。